障害当事者が小説を書くということ

障害当事者が小説を書くということ

つねづね、障害があろうがなかろうが、自分の認識は自分のものだと言い張りたいと思ってきたが、それは本当にそうだっただろうか。

 (小説にするつもりの文章などを)いざ書き始めるとすぐに「マイノリティ」の視点から世界を眺める書きぶりに陥ってしまうことに気づく。

 特殊性に依拠した認識をあからさまに書こうとしているわけではないはずなのに、結果そういう書き方に流れてしまうのは、特殊な認識の方が「その他大勢」の注意を引きやすいと学習してしまっているからか。

「障害を抱えているから」、わたしは世界をこういうふうに認知しているんですよ、というものを書いても、それは「『障害』を抱えているからそういうふうに認知したに過ぎない物語」として受容され消費されるものにしかならないのだろうな、と。

書き手が障害を持っていることと、その書き手が世界をどのように認識しているかということは、不可分のものではありながらも、それを認識の根拠としてこと、さらに押し出すことは、特殊な事例を特殊性の中に留めてしまう点において、「開かれた」一撃にはならないのではないか。

 ましてやそれを読む人にとって「ごく当たり前の認識」を揺るがすようないわば「異物」にすらならないのではないかと、ふと考えた。