「代替なんて無いのだ」


 例えば何かの存在が消え、世界に空隙ができたとする。

 そうするとあれほど強固に見えた「存在」に取って代わって「喪失」が現れる。

 喪失の一時的な代入によって、人はその先の時間を安心しながらやり過ごし、やがて忘却するだろう。

 或いは過去の「手ざわり」だけは残るのかも知れない。

 その感覚や想念を縁に人は過去を思い、時間を手繰り寄せる。

 それはごく私的な時間だ。

 その時間は目には見えないし他人と共有も出来ないかも知れない。

 真にプライベートな時間は、他者とは共有出来ない。それは、その人間の観念の中にしかないものだから。

 そう。

 もしかしたら喪失は観念かもしれない。

 かたや、「不在」や、「欠損」は観念だろうか。

 一般に、先天的に失われているものについて、いや、そもそも失われているわけではなく、「はじめから備わっていないもの」について、人は何を語り得るのだろうか? 

 空白を埋めるはずの何か、そうであって然るべき何かをあたかもそこに見るように、惜しむように、こうであればよかった、とでも言うのか。

  では、想像力とは、何なのか。

 

 

 注意しなければならないことは、それは「初めから無い状態であった」ということだ。

 そもそも、それが始まりなのだ。

 「そうでは無い状態」が当たり前である中においては、それ以外の状態はむしろ「不自然」ですらあるだろう。

 だから「こうであれば良かった「のに」」という言葉には、僕は違和感を感じるし、そこに無意識の暴力を感じる。

 言葉では多様性を言いながら、個性を謳いながら、

 特定のひとつの型を「基準」だと何のためらいもなく考えることに違和感すら抱かない以上、結局のところ僕たちの息苦しさは、とめどがないだろう。

 競争心や何かにつけ優劣を付けたがる心理、自分や他者を特定の型に嵌め込んで安心を得ようとする安易さは、結局のところ自分自身を切り刻む虚しい自傷行為に過ぎないのではないだろうか。

 その痛みは、本当にその人自身の喜びにつながるだろうか。