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例えば傷の深さをはかること。或いは不毛な希望

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”目に見えないもの”が存在するおかげで、
僕たちは、いつも困っている。

言葉だって目には見えないけれど、届けることはできると思えばこそ、少しは安心して発信しているけれども、
果たして心の内の思いを、その言葉で、その言葉だけで、十分に言い得ているのだろうかと考え始めると、
途端に不安に駆られたりするから厄介だ。

僕たちは、基本的に「面倒くさい」存在のあり様を呈している。
たとえば「自分の」言葉を又別の言葉で説明しなければ、おそらく何も伝わらないのだというこの、絶望的な連鎖がある。
他人と、意思疎通をしようとする時に付きまとう徒労感は、説明に説明を重ねて結局何も伝わらないという経験の積み重ねに由来しているが、
その混乱自体については、誰も聞きはしないという現状に由来する。
曰く「努力不足だ」ー。
嗚呼、良い気なものである。

結局、何を言っても何を言わなくても、伝わるものは伝わり、
伝わらないものは、相手に対して感情的になろうがどうしようが決して伝わらないのならば、
人は何の目的で、誰に、何を、伝えようとするのだろうか。

生きる中にある喜びは、他者に言うほどのことは何もなく、
苦しみこそ、それだけが、他者の「蜜」として耳目を集めてしまうのなら、
人は、他者の集う社会、街の中に、自らの不幸のみを、
まるでハイエナの集団の中に腐肉を投げ込む様に、自らの苦しみを明らかにしながら投げ込む。

その街は、たとえば、公共の広場を連想させる。

その広場で、ピエロが戯け、嘲笑と罵声に巻かれる。
自傷癖のある子どもが、手首を切る。
広場が血に染まる。
草臥れた浮浪者が石を投げられる。
広場が血に染まる。
生まれたばかりの赤ん坊が産み捨てられる。
広場に泣き声が響く。

そんな広場を横目に見ながら、少女は、金のありそうな大人に媚を売る。

そんな社会で、そんな広場で、
生まれた子供は、希望を歌うだろうか。

鳩は一日あればあっという間に銅像を糞まみれにし、
掃除人は諦めのため息を吐きながら、銅像を磨く手を止めてしまう。
銅像はかつて美しかったのだ。黄金色に輝いたこともあった。
街の人たちの誇りだった。犠牲と回復の象徴として。幸福を得た人々の。

掃除人は、唾を吐き捨て、呟く。

「嗚呼、この畜生め」

もちろん、
人は、鳩を、追い払うことは無い。