数年前、目にして以来、どうしても気になって、事あるごとに思い出す言葉がいくつかあるのだけれど、そのうちの一つがフーコーの以下の言葉である。
―「茶番・取るに足らない詳細・無名性・栄誉無き日常・共同生活といった、これらすべてのことが、言われうるし、言われなければならず、望むらくは書かれうるし、書かれなければならない。
(中略) 誕生したのは、従って、言述の広大な可能性である」―
これは以下のように言い換えられる。
「秘められた生のもっとも共通する様相を語らねばならぬという義務」がこれから生まれ来る文学にあるならば、
文学が語る対象は、「秘匿されたもの、呵責なきもの、もっとも恥ずべきもの」のはずだ、ということである。
かつて、文学は神話や冒険譚、寓話などの「大きな物語」であった。
しかし、十七世紀西欧において、文学はそれまで可視化され得なかったような「小さな」ことについて語り出したのだ。
それまでは、個人的な感情(憎悪・嫉妬)や姦淫や暴力などの「罪」はキリスト教の中で宗教的に消化されていた。
が、宗教的な「告白」では収まりきらなくなっていくに連れて、それが政治の中で解決されるようになる変化と共に、「茶番・取るに足らない詳細・無名性・栄誉無き日常・共同生活といった、これらすべてのことが、」可視化されるという。
個人の「恥」と「汚れ」に塗れたささやかな「生」が行政の中に政治的紛争として持ち込まれること。
そしてそれが記録されること。
そのことによって、社会が「事実」と認定した「事実」が生まれる。
それは、言説から過剰な「演劇性」が剥ぎ取られることを意味する。
演劇性を剥ぎ取られた言葉、小さな物語、積み重ねられる「事実」、ささやかな声で語られ、訴えられる個人的な「真実」。
それが、言述の可能性として現在まだ、文学の始まりの場所に残されているとするならば。
文学を生むときに問われるのは、「事実」と「記憶」と「記録」と「想像」の坩堝の中から、作者がどんな手つきで、「それ」を取り出し、新たに上書きしていくのかということである。
もちろん「選択」の結果しか読み手には分からないけれど、だからこそ、作者は慎重に、執拗に自分自身に問い続けることが必要なのだと、久々に思い出した冒頭のフーコー の言葉は、僕に思わせてくれた。
そして、フーコー のこの言葉が、ずっと気に掛かっていたその理由が分かった気がする。