時の纜を解いて

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現在の考えや価値観と当時の価値観や受け止めかたには、当然ながら差異があって、その差異の発生原因には様々な「経験」があるのだけれど、その経験とは要するに「記憶」である。

 

本を読んでいて、いつも思うことは、記憶は、書かれ、伝わる–、ということだ。歴史とは「書かれた記憶」に他ならない。

いや、たまたま書かれ残ったもの(=歴史)が誰かの「記憶」だった、と言うべきか。

 

僕の個人的な歴史(=記憶)にとってもその事情は同じで、結局、当時の価値観を洗い出す作業は、過去の記憶を呼び覚ますことであるし、そこに再検討を加えることである。

(その際に混じる記憶の錯誤や記述の誤りについては別考したい。)

自らを知るタイミングは大概、経験の渦中では無く、過去から経験を振り返るその時だ。

僕が、自分を「遅い」人間だと思うのはそういった点からである。

 

いつも後悔がある。

いや、悔いがあるというより、「うまく行かないこと・失敗を【経験】しているという自覚がある。

今までのところ、僕の「経験」とは大概は失敗の経験だ。

今、僕が病み、傷み、社会の中に居場所を失くしているという事実が、その何よりの証左ではないか。

 

だがしかし、その敗残ではあるにせよ僕の「記憶」がたくさん積み重なったことを実感している。

それは直感みたいなものだ。

だから、ため息とともに思う。

時は来た、と。

少し大袈裟に大仰にそう思って、奮い立たせる気持ちだ。

 

再度。

個人的な「記憶」は「記録」される意味があるか。

すなわち、個人的な記憶が共有され、記録されるだけの価値はあるかという問い。

この問いが大きな手枷足枷となって僕の手を縛ってきたが、

逆にこう考えてみる。

「まさにその問いの答えを出すためにこそ、動き出さなければならない。書いてみなければならない。」

そして僕は急いで付け加える。

「全ては試行である」、と。

 

***

◆「永遠」アルチュール・ランボー

–そこに望みがあるものか

救済だってあるものか

忍耐の要る学問だ

煩悶だけが確実で–

(一部抜粋)

 

◆「別れ」アルチュール・ランボー

もう秋か。

——それにしても、何故、永遠の太陽を惜しむのか、

俺達はきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか、

——季節の上に死滅する人々からは遠く離れて。

秋だ。

俺達の舟は、動かぬ霧の中を、

纜〔ともづな〕を解いて、

悲惨の港を目指し、

焔と泥のしみついた空を負ふ巨きな街を目指して、舳先をまはす。

(一部抜粋)

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