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書くこと、読むこと、考えること。
 
人はいかにして作家になるのか

人はいかにして作家になるのか

「アゴタ・クリストフ自伝 文盲 L’Analphabete」(訳・堀茂樹 白水社)を読んだ。

 アゴタ・クリストフは、一九八六年に出版された「悪童日記」およびその続編「ふたりの証拠」、「第三の嘘」の作者である。二十一歳の時、一九五六年のハンガリー動乱から逃れるため、夫と共に生後四か月の娘を連れ、オーストリアを経てスイスのフランス語圏ヌーシャテルに移住した。この、生後間もない子どもを抱え、ハンガリーからオーストリアへと国境を越え脱出するくだりは、緊張感に満ちている。

「ハンガリーに戻ること、わたしたちは皆、それが何を意味するのかを知っている。戻ったら最後、違法に脱出したかどで刑務所行きだ。もしかしたらその前に、酔っぱらったロシア人の国境警備兵に狙い撃ちにされるかもしれない。
突然、強い光がわたしたちを照らし出す。どこからか声がする。
『止まれ!』
わたしたちのうちの一人がドイツ語で言う。
『われわれは難民だ』オーストリアの国境警備兵たちが、にこやかに応じる。
『そうだと思った。ついて来なさい』」

(中略)

「奇妙なのは、この亡命の経過について、わたしにはわずかな想い出しか残っていないことだ。あたかも当時のすべてが夢の中で、またはこの人生とは異なる別の人生の中で起こったことででもあるかのように。あたかもわたしの記憶が、わたしが自分の人生の大きな部分を喪ってしまったあの時のことについては、想い出すことを拒んでいるかのように。
 わたしはハンガリーに、秘密の表記法で書き綴った日記を、また初期の詩篇を、置いてきた。わたしは兄と弟を、両親を残してきた。何も告げず、さようならとも、また会いましょうとも言うことなしに−−。そして何よりも、あの日、一九五六年の十一月末のあの日、わたしはひとつの国民(ネーション)への帰属を永久に喪ったのである。」(「記憶」p.60)

 やがてパリで刊行されているハンガリー語文芸誌の『文芸新聞』(Irodalmi Újság イロダルミ・ウーイシャーグ)や『ハンガリー工房』(Magyar Műhely マジャル・ミューヘイ)にハンガリー語で詩を発表し始めるが、多くの作品は出版されることはなかった。その後、生計を立てるためには現地の言葉で作品を発表する必要があると一念発起して、フランス語で執筆を開始し、一九八六年『悪童日記』でフランス語文壇デビューを果たす。この作品は世界で四十以上の言語に翻訳され、同時に世界的にも注目される作家となった。

「ベルリンでは、その日の夜、朗読の夕べが開かれる。人々が集まってきて、わたしに会い、わたしの声を聞き、わたしに質問を投げかけるのだという。わたしの本について、人生について、わたしが作家になった経緯について−−。さて、人はどのようにして作家になるかという問いに、わたしはこう答える。自分の書いているものへの信念をけっして失うことなく、辛抱強く、執拗に書き続けることによってである、と。」(「人はどのようにして作家になるか?」p.83)