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書くこと、読むこと、考えること。
 
活字中毒者の弁

活字中毒者の弁

休日には街の本屋に行くことも多い。

目当ての本があることもあるし、特に何も無くて暇つぶしに行くこともある。

 

いずれにせよ、家からほど近い本屋を何軒かハシゴするのはとても楽しい。

ちなみに昨日、久しぶりに立ち寄った本屋は、以前とは微妙に「傾向」が変わっていて、非常に楽しかった。

街の本屋には、その店特有の「傾向」というか「色」がある。

その「色」や「傾向」が自分の好みと合致するということは、本屋好き、読書好きには幸せな偶然だ。

多分、自分と本の好みが似た店員がいるのだろうなどとも考えると、棚の中の配列を眺める愉しみも格別なものである。

昨日の本屋にはそのような愉しみがあった。当然、他に客はいるのに、基本的にとても静かだ。

「街の本屋」といった風情の小ぢんまりした佇まいの店内は、紙とインクの匂いに満ちている。

店内の棚をゆっくりじっくり見て回ると、それだけで発見がある。

インターネットで必要な本を買うことも多くなったが、それはあくまで「必要」だと分かっている本である。

資料であったり、参考文献の類いである。

読書を楽しむための本は、

実際の書店で現物を手に取り、

その重量と装丁・紙の手触り、

それらを感じ、

比較し、

また予算と、

自らの読書スピードと、

読書時間の有無を推し量りながら、

ようよう一冊の小説、雑誌、新書、漫画を選び出すのである。

 

私が一番長居をするのは、文芸の棚の前である。

 

書名を何度も耳にしたことのあるようなベストセラーはやはりすぐ目に留まる。

大きな文学賞受賞の帯もそうだ。

平積みされた新刊書を眺め、好きな著者の新作は無いかチェックする。

 

この時点で、「読みたい」本は幾冊か腹に決まる。

さて、次はその本を、何時買い、いつ読むか、について決めねばならない。

 

読みたいと瞬間でも思った全ての本を同時に全て買い、全ての予定をキャンセルして、それこそ、寝食すら脇に置いて、読書に浸れるのなら、そのような贅沢が許されるのなら、私は、今すぐにでもそうしたいところだが、今日の休日が終われば、寝て起きて、仕事に行き、数時間拘束され、クタクタに疲れて帰って、集中して読書に没頭出来る余裕などないのだ。

それは、恐らく、フリーランスで仕事をしているわけではない全ての読書好きの人間の、控えめに言って、「激しい懊悩」であろう。

読む時間が減れば、それだけ「読書勘」とでもいったモノが減衰するような気もするし、良書を見極める「選書眼」も曇りやすくなる。

かくて、数年前までのように、読みたい本を無造作に手当り次第に読める状況ではなくなったし、それは寂しくもあるのだが、だからこそ時間を掛けて選び出した一冊を購い、持ち帰って書斎に籠もり、心静かに最初の一ページを繰る際の喜びは、実に実に、何物にも代え難い。