『太宰よ! 45人の追悼文集 さよならの言葉にかえて』(河出書房新社編集部編)を読んだ。
その中に、平林たい子の「脆弱な花」という太宰への追悼文が収められている。
その中で平林は太宰の小説について次のように語る。
「太宰氏の小説の一つの魅力はあの脆弱美である。(中略)花を見ても、なぜ美しいかといえば、花びらの薄さや弱い感じをいう外ない。太宰氏の小説ではつまりその要素の比率が大きいわけだろう。」
生きるのに理由を求めてしまうと、途端に苦しくなるのは、自分が生きるのに大した根拠などないのだとすぐに気づいてしまうからだ。
だから、嘯いて強がって酔っぱらったように騒ぎながら、限られた時間を駆け抜けていくのだ。
そうした姿を思い浮かべる時、僕は、切ない。
他人に対して慈しみを感じる。余計なお世話だが。
自分の生に何もないと悟ることは、存在の無根拠を感じ続けながら存在するということではないか。
無根拠の暗闇を凝視し続けて、平気で居られる者などいるだろうか。
それは自分自身の、言わばパンドラの匣を開けてしまう取り返しのつかなさと同じだ。
生きるためには、そこから目を逸らして生きるしかないのだが、それを良しとはしない時、悲惨が訪れる。
その人間がそこに見るのは、「地獄」ではないのか。
地獄を凝視しながら、花を描くことが、例えば太宰の小説家としての生き方だったのかもしれない。
平林は、太宰の文学は身辺の環境から生まれたものだとし、先に挙げた追悼文を、以下のように結んだ。
「われわれをあれだけたのしませてくれるあのひょうきんな、上品な、才気横溢した芸術が、実は、陰惨と言ってもよい氏の身辺の配置から生まれたものだということは、読む者の一応承知しておかねばならないことであろう。誇張した言い方をすれば、そういうものの犠牲の上に咲いている花だ。」