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書くこと、読むこと、考えること。
 
永井荷風「銀座」

永井荷風「銀座」

永井荷風の短編「銀座」の中に以下のような一節がある。

……停車場内の待合所は、最も自由で最も居心地よく、聊かの気兼ねもいらない無類上等の 〔Cafe’〕 である。耳の遠い髪の臭い薄ぼんやりした女ボオイに、義理一遍のビイルや紅茶を命ずる面倒もなく、一円札に対する剰銭を五分もかかって持て来るのに気をいら立てる必要もなく、這入りたい時に勝手に這入って、出たい時には勝手に出られる。そしてこの広い一室の中にはあらゆる階級の男女が、時としてはその波瀾ある生涯の一端を傍観させてくれる事すらある。

 私はこれを読んだとき、人は何のために「カフェ」に行くか、とふと考えた。

 荷風は停車場の待合所を「無類上等のカフェ」と見なしている。
 そこで様々な人たち、とりわけ男女が波乱ある人生の一端を見せてくれるのだとして、その場を人間観察の出来る貴重な場だという。

そして続けて言う。

新橋の待合所にぼんやり腰をかけて、急しそうな下駄の響と鋭い汽笛の声を聞いていると、いながらにして旅に出たような、自由な淋しい好い心持がする。

とも書いている。
「自由な淋しい好い心持ち」ー。
 無駄なことに心を煩わされることのない、旅の空にいるような自由さ。
それゆえの孤独を同時に感じながらも、それを心地良いとも感じている。

自分は動いている生活の物音の中に、淋しい心持を漂わせるため、停車場の待合室に腰をかける機会の多い事を望んでいる。何のために茲に来るのかと駅夫に訊問された時の用意にと自分は見送りの入場券か品川行の切符を無益に買い込む事を辞さないのである。