2017年度・第157回芥川賞受賞作の「影裏」(文芸春秋社)を読んだ。
この作品のあらすじを逐一書くつもりはない。
だが、一応これくらいは事前情報があってもいいということで、書籍の帯に書かれてあったものを記しておく。
「北緯39度。会社の出向で移り住んだ岩手の地で、ただひとり心を許したのが、同僚の日浅だった。ともに釣りをした日々に募る追慕と寂しさ。いつしか疎遠になった男のもう一つの顔に、「あの日」以後、触れることになるのだが・・・・・・。樹木と川の彩りの中に、崩壊の予兆と人知れぬ思いを繊細に描き出す。」
さて、この作品には主に二人の人物が登場する。「私」と「日浅」だ。両者とも男性である。
話者である「私」の視点で見た「日浅」はそこはかとない「不穏」さを内包しているように感じた。
描写される対象を、ある一つの「型」に収まるようなものとして描くことを避けようとする姿勢ゆえかと思った。
それは人を流動的なもの(=生命)として描こうとすることで、別言すれば、人を死=確固として停止してしまった「物」として語ることへの拒否である。命を流動的なものとして捉えるイメージは、流動そのものである川や跳ね回る魚の描き方に見ることも可能だろう。
生きているものは不穏である。
何を言い、何をしでかすか分からないからである。その意味で、この小説は不穏である。少なくともその「予感」に満ちている。作中に満ちる予感、不穏さは、全てを明白には描き出そうとはしていない筆致からもたらされる。
記憶の空白の中に靄(もや)のように立ち上がる日浅の姿を見ようと「目を凝らすこと」を読む者に要請してくる。それは「私」の姿勢でもあるだろう。そしてそれはあたかも、川の流れの中にいるはずの魚を釣り上げるまではまだ確固として自らの手には入らない川魚の姿を、一刻も早く見ようこの目で確実に見ようと凝視する釣り人のようだ。
そして、その魚を捕らえるためには、しなやかな「竿」と、岩の影/裏に潜む「餌」が必要である−。
違和感は実は我々の生に溢れている。
「わたし」の日浅に対する「違和感」(?)は例えば、以下のような一文、ただ、わたしの目には日浅はどうも、時代を間違えて生まれたように見える
というさりげない一行に見られる。
目の前にいる人が、時代を間違えているように見えるとは、風景の中にうまくハマっていない異物として観察者に見られているということだ。この、「違和を感じる」とはどういうことなのか。いや、それは本当に「違和感」なのだろうか。他者を自分と異なるものとして認識するその感覚は「違和感」だけで語るわけにはいかないかもしれない。愛着が愛憎に変化していく過程においても、対象との距離(身体的・心理的)は変容するということを思い出せば十分だろう。
本来、読書とは制限された行為である。
進行方向しか照らさないタイプのライトを頼りに真っ暗闇の中を、進んで行くようなものだろう。
だから作品の中に現れる人の心情を、書かれた世界の中のみで、正確に理解することは実は不可能に近いのかもしれない。繰り返すが、作品の中にあるのは「書かれた」言葉で構成された世界だからだ。
例えば、その生死すら定かではない距離にいる他者を、ある一定のイメージに固定して語ろうとする思考こそ、普段我々がたやすく口にする「あの人のことは知っている」という思いである。
我には我の生があり、彼には彼の生がある。しかし、たまたまその異なる生を抱えたもの同士が交錯する時間を我々は恩寵のように貪り合うのかもしれない。
本作のタイトルは「影裏」である。
それは作品の後半に出てくる禅の言葉、「電光影裏斬春風」(電光影裏春風を斬る)から取られているんだなと分かる。禅の言葉の意味としては、「人生は束の間。人生を悟った者は永遠に滅びることがありません。電光(稲妻)が春風を打つようなもので、真の魂まで奪うことはできない。今をとりまく状況はすべて幻である。」ということらしい。
なお、この作品の著者は沼田真佑氏であり、氏は、本作で第122回文學界新人賞を受賞してデビューしており、デビュー作が芥川賞も受賞したということになる。なお、本作品は2020年に映画化された。