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自戒としての

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「いっさいの書かれたもののうち、わたしはただ、血をもって書かれたもののみを愛する。
 血をもって書け。
そうすればお前は、血が精神だということを理解するだろう。」

ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』にこういう記述がある。
文章を書いているとき、他人の文章を読んでいるとき、ふとこの言葉を思い出す。
『ツァラトゥストラかく語りき』第7章の「読むことと書くこと」はまさしく、この言葉から始まっているからだ。

他者の目に触れる文章を書くというのはどういうことなのか。
例えば、特定の文章を「小説」たらしめている何かとは何なのか。
物語とは何か。
誰かが経験したことやしなかった事象を基にしたりしなかったりして、
物語を編むとは、どういうことなのか。
その物語が、ある対価をもって読まれ、評価されたりされなかったりすることは、一体どういう事態なのか。

ずっと考え続けていることは結局、この一点だ。
就職してしばらく書けない時期が続いて、
今また書き出そうという時に、何気なくめくっていた文庫本に、ニーチェの言葉を見つけた。

本棚の前に立ち尽くして、思った。

これからまた書くとして、
僕は何をどう書くのだろうー。
血をもって書くというなら、書きたいことはずっと同じ一つのことだ。
あの事だ。

やはりそうだったのだ。
書くに値する事というのは自分の内部を巡る血の様に、自らの内側にしかないこと。
そして「血」とはすなわち「精神」だという。

借り物の言葉、お仕着せの価値観、無難な感性が、
小さな、切実な、声を押しつぶしてしまう(かもしれない。)

自らの思考で、自らの感覚で、自らの体で言葉を書いていくこと、
又、
自らの感性で、自らの思考や価値で、他者の言葉を読んでいくことを、

覚悟しなければいけないのだろう。

自らへの戒めとして。