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書くこと、読むこと、考えること。
 
小林秀雄「実朝」

小林秀雄「実朝」

 小林秀雄に「実朝」という、鎌倉幕府三代将軍源実朝について論じた評論がある。

 この評論は新潮文庫版「モオツァルト・無常ということ」に収められている。

 昨年(2022年)の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも源実朝が当然ながら登場しておりその中に実朝の歌が何度か登場したこともあり改めて関心をもったので、再読してみた次第である。

 まず、「実朝」の冒頭に近い部分で小林は、文学と歴史については以下のように書いている。

文学には文学の真相というものが、自ら現れるもので、それが、史家の詮索とは関係なく、事実の忠実な記録が誇示する所謂真相なるものを貫き、もっと深いところに行こうとする傾向があるのはどうも致し方ない事なのである。深く行って、何に到ろうとするのであろうか。深く歴史の生きている所以のものに到ろうとするのであろうか。とまれ、文学の現す美の深浅は、この不思議な力の強弱に係るようである。吾妻鑑の文学は無論上等な文学ではない。だが、史家の所謂一等史料吾妻鑑の劣等な部分が、かえって歴史の大事を語っていないとも限るまい。

(中略)

特に実朝に関する吾妻鑑編者等の舞文潤飾は、編者等の意に反し、義時の陰謀という事実を自ら臭わしているに止まらず、自らもっと深いものを暗示しているという点である。

 さらに小林は実朝の歌について、

「彼の歌は、彼の天稟の開放に他ならず、言葉は、殆ど後からそれに追い縋る様に見える。その叫びは悲しいが、訴えるのでもなく求めるのでもない。感傷もなく、邪念も交えず透き通っている。決して世間というものに馴れ合おうとしない天稟が、同じ形で現れ、又消える。彼のような歌人の仕事に発展も過程も考え難い。彼は常に何かを待ち望み、突然これを得ては、又突然これを失う様である。」

と書いている。

 小林は実朝の「歌」だけを、作者個人と切り離して解釈しようとはしていない。

 むしろ実朝の歌の中の「悲しい」「叫び」を聴くことで「文学の真相」へ至ろうとしているようだ。

 では小林の言う「文学の真相」とは何か。

 文学の真相とは、実朝の歌が「透き通っている」理由(ワケ)と同義ではないかと、私は思う。実朝の「天稟」は歌の中に解放された。そしてその「天稟」は何かを「待ち望み」、束の間それを得ながらも「又突然これを失う様」であるという時、小林は実朝の歌の中の「もっと深いところに行こうと」しているのだと言える。

 「実朝」から以下、引用する。

「鎌倉の右府の歌は志気ある人決えて見るべきものにあらず」という香川景樹の評は、子規を非常に立腹させた(「歌話」)。実朝の歌が、わからぬ様な志気は、一向詰らぬ志気には相違あるまいが、景樹は、出まかせの暴言を吐いたわけではあるまい。実朝の歌は悲しい。おおしい歌でもおおらかな歌でもないのだから。「万葉」を学び、遂に「けがれたる物音はらひすてて、清き瀬にみそぎしたらん」が如き歌境に達したとする真淵の有名な評言にしても、出鱈目なものである。恐らく、実朝の憂悶は、遂に晴れる期はなかったのであり、それが、彼の真率で切実な秀歌の独特な悲調をなしているのである。

(箱根の山をうち出でて見れば浪のよる小島あり、供の者に此のうらの名は知るやと尋ねしかば、伊豆の海となむ申すと答へ侍りしを聞きて)
  箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ

​ この所謂万葉調と言われる彼の有名な歌を、僕は大変哀しい歌と読む。実朝研究家たちは、この歌が二所詣の途次、詠まれたものと推定している。恐らく推定は正しいであろう。彼が箱根権現に何を祈って来た帰りなのか。僕には詞書にさえ、彼の孤独が感じられる。悲しい心には、歌は悲しい調べを伝えるのだろうか。それにしても、歌には歌の独立した姿というものがある筈だ。この歌の姿は、明るくも、大きくも、強くもない。この歌の本歌として「万葉集」巻十三中の一首「あふ坂を打出て見ればあふみの海白木綿花に浪立ちわたる」が、よく引合いに出されて云々されるが、僕には短歌鑑賞上の戯れとしか思えない。自分の心持ちを出来るだけ殺してみるのだが、この短調と長調とで歌われた二つの音楽は、あんまり違った旋律を伝える。「万葉」の歌は、相坂山に木綿を手向け、女に会いに行く古代の人の泡立つ恋心の調べを自ら伝えているが、「沖の小島に波の寄るみゆ」という感じの含みがあり、耳に聞こえぬ白波の砕ける音を、遙かに眼で追い心に聞くと言う様な感じが現れているように思う、はっきりと澄んだ姿に、何とは知られぬ哀感がある。耳を病んだ音楽家は、こんな風な姿で音楽を聞くかも知れぬ。
 大きく開けた伊豆の海があり、その中に遥かに小さな島が見え、又その中に更に小さく白い波が寄せ、又その先きに自分の心の形が見えて来るという風に歌は動いている。こういう心に一物も貯えぬ秀抜な叙景が、自ら示す物の見え方というものは、この作者の資質の内省と分析との動かし難い傾向を暗示している様に思われてならぬ。

  ゆふされば汐風寒し波間よりみゆるこじまに雪は降りつつ

 特にここに挙げるほどの秀歌とも思わぬのだが、前の歌が調子を速め、小刻みになった歌という風に見れば、やはり叙景の仮面を被った抒情の独特な動きが感じられる。一読すると鮮やかな叙景の様に思われるが、見ているうちに、夕暮がせまり、冷い風が吹き、冬の海は波立ち、その中に見え隠れする雪を乗せた小島を求めて、眼を凝らす作者の心や眼指しの方が、次第に強くはっきりと浮んで来る。何か苛立たしいもの、苛立たしさにじっと堪えているものさえ感じられるのではないか。
 実朝は早熟な歌人であった。

  時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王あめやめ給へ

 は、彼の​廿歳の時の作である。定家について歌を学んでいる廿歳やそこらの青年に、この様な時流を抜いた秀歌があるとは、いかにも心得難い事で、詞書に建暦元年とあるのは、或は書き誤りではあるまいか、という様な説さえ現れた程だが(斉藤茂吉「金槐集私鈔」)、それよりもまず実朝自身に、これが時流を抜いた秀歌という様なはっきりした自覚があったかどうかを疑ってみる方が順序であり自然でもあると思う。勿論、彼は、ただ、「あめやめ給へ」と一心に念じたのであって、現代歌人の万葉集学という様なものが、彼の念頭にあった筈はない。当り前の事だ。そして、これをそういう極く当り前な歌としてそのまま受取って何の差支えがあろうか。何流の歌でも何派の歌でもないのである。又、殊更に独創を狙って、歌がこの様な姿になる筈もない。不思議は、ただ作者の天稟のうちにあるだけだ。いや、この歌がそのまま彼の天稟の紛れのない、何一つ隠すところのない形ではないのだろうか。何を訝り、何を疑う要があろう。これは単純な考え方だ。併し、「建暦元年七月、洪水漫天土民愁歎せむ事を思ひて、一人奉向本尊聊致祈念云」という詞書と一緒にこの歌を読んでいると、僕は、自ら、そういう一番単純な考えに誘われて行くのである。僕は、それでよいと思っている。
 子規はこの歌を評し、「此の如く勢強き恐ろしき歌はまたと有之間敷、八大竜王を叱咤叱する処、竜王も懾伏致すべき勢相現れ申候」(歌よみに与ふる書)と言っているが、そういうものであろうか。子規が、世の歌よみに何かを与えようと何かに激している様はわかるが、実朝の歌は少しも激してはおらず、何か沈鬱な色さえ帯びている様に思われる。僕には、懾伏した龍王なぞ見えて来ない、「一人奉伺本尊」作者が見えて来るだけだ。まるで調子の異った上句と下句とが、一と息のうちに連結され、含みのある動きをなしている様は、歌の調とか姿とかに関する、作者の異常な鋭敏を語っているものだが、それは青年将軍の責任と自負とに揺れ動く悩ましい心を象ってもいるのであって、真実だが、決して素朴な調ではないのである。個々の作歌のきれぎれな鑑賞は、分析の精緻を衒って、実朝という人間を見失い勝ちである。例えば、次の歌を誰も勢強く恐ろしい歌とは言わぬであろう。

  ものいはぬ四方の獣すらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ

 併し、これも亦実朝という同じ詩魂が力を傾けた秀歌なる所以に素直に想いを致すならば、同じ人間の抜差しならぬ骨組が見えて来る筈だ。何やらぶつぶつ自問自答している様な上句と深く強い吐息をした様な下句との均斉のとれた和音、やはり歌は同じ性質の発想に始まり、同じ性質の動きに終わっている事を感知するであろう。

  大海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも

 こういう分析的な表現が、何が壮快な歌であろうか。大海に向って心開けた人に、この様な発想の到底不可能な事を思うなら、青年の殆ど生理的とも言いたい様な憂悶を感じないであろうか。恐らくこの歌は、子規が驚嘆するまで(真淵はこれを認めなかった)孤独だっただろうが、以来有名になったこの歌から、誰も直かに作者の孤独を読もうとはしなかった。勿論、作者は、新技巧を凝そうとして、この様な緊張した調を得たのではなかろう。又、第一、当時の歌壇の誰を目当に、この様な新工夫を案じ得たろうか。自ら成った歌が詠み捨てられたまでだ。いかにも独創の姿だが、独創は彼の工夫のうちにあったというより寧ろ彼の孤独が独創的だったと言った方がいい様に思う。自分の不幸を非常によく知っていたこの不幸な人間には、思いあぐむ種はあり余る程あった筈だ。これが、ある日悶々として波に見入っていた時の彼の心の嵐の形でないならば、ただの洒落に過ぎまい。そういう彼を荒磯にひとり置き去りにして、この歌の本歌やら類歌やらを求めるのは、心ないわざと思われる。

  我こゝろいかにせよとか山吹のうつろふ花のあらしたつみん

 これは「山吹に風の吹くをみて」と題され、前の「あら磯に浪のよるを見てよめる」とは趣は勿論違ったものだが、やはり僕には、この人の天稟と信ずるものの純粋な形が、そのまま伝わって来る様な歌と思われる。言葉の非常に特色ある使い方が見られるが、これも亦ただ言葉の上の工夫で得られる様な種類のものではあるまい。よほどはっきりと自分の心を見て掴む事が出来る人でないと、こういう歌は詠めぬ。人にはわからぬ心の嵐を、独り歌によって救っている様が、まざまざと見える様だ。

  うば玉ややみのくらきにあま雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる

「黒」という題詠である。恐らく作者は、ひたすら「黒」について想いを凝らしたのであろうが、得たものはまさしく彼自身の心に他ならず、題詠の類型を超脱した特色ある形を成している点で興味ある歌と思うのであげたのであるが、実に暗い歌であるにも拘らず、弱々しいものも陰気なものもなく、正直で純粋で殆ど何か爽やかなものさえ感じられる。暗鬱な気持ちとか憂鬱な心理とかを意識して歌おうとする様な曖昧な不徹底な内省では、到底得る事の出来ぬ音楽が、ここには鳴っている。言わば、彼が背負って生れた運命の形というものが捕えられている様に思う。そういう言い方が空想めいて聞える人は、詩とか詩人とかいうものをはじめから信じないでいる方がいい様である。

「古今」「新古今」の体を学んだ実朝が、廿二歳で定家から「相伝私本万葉集」を贈られたのを期とし、「万葉」の決定的な影響の下に想を練り、幾多の万葉ぶりの傑作を得、更に進んで彼独特の歌境を開くに至ったという従来一般に行われていた説が、佐佐木信綱氏の「定家所伝本金槐集」の発見によって覆ったといわれる。この発見が確実に証したところは、要するに、直接には、人口に膾炙した傑作の殆ど全部を含め、従来実朝の歌と認められて来たものの大部分(六百六十三首)は、それが彼の全製作という確証はないが、ともかくすべて彼の廿二歳以前の作であるという事、間接にはには廿二歳を境として、実朝の環境や精神に突然変異が生じたという様な事が考えられない以上、その後の彼の作歌の殆どすべては散佚したと考えるべきだし、従って、将来新たな歌集の発見も考えられぬわけではないという事、そういう次第であってみれば、折角の大発見も、実朝の創作の発展とか筋道とかに関する本質的問題を少しも明らかにする処はなく、寧ろ為に問題はいよいよ謎を深めたとも言えるのである。実朝の創作に関する覆された従来の説が、どういう様なものであったにせよ、兎も角一つの解釈には相違なかったわけだが、言わば歌人実朝の廿二歳の横死体が投げ出されて以来、下手人の見当も付かず、詮索は五里霧中という有様で、そういう状態は、合理的解釈とか方法論とかいう趣味の身についた現代の評家にはまことに厄介なものだろうと推察される。従って、例えば、次の様な窮余の一策も現れる。定家所伝本の歌が廿二歳までの実朝の全集と仮定すると、現存する其他の彼の歌は、すべて廿二歳以後の作という一応好都合な事になる。そこで、これらの歌の数の少い事と質の凡庸なものが多いところから判断して、驚くべき早熟の天才にあり勝ちな驚くべき早老を、実朝に想像してみる(川田順「源実朝」)。併し、努めて古人を僕等に引寄せて考えようとする、そういう類いの試みが、果して僕等が古人と本当に親しむに至る道であろうか。必要なのは恐らく逆な手段だ。実朝という人が、まさしく七百年前に生きていた事を確かめる為に、僕等はどんなに沢山なものを捨ててかからねばならなぬかを知る道を行くべきではないのだろうか。
「実朝といふ人は三十にも足らで、いざ是からといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候」(歌よみに与うる書)。恐らくそうだったろう。子規の思いは、誰の胸中にも湧くのである。恐らく歴史は、僕等のそういう想いの中にしか生きてはいまい。歴史を愛する者にしか、歴史は美しくはあるまいから。ただ、この種の僕等の嘆息が、歴史の必然というものに対する僕等の驚嘆の念に発している事を忘れまい。実朝の横死は、歴史という巨人の見事な創作になったどうにもならぬ悲劇である。そうでなければ、どうして「若しも実朝が」という様な嘆きが僕等の胸にあり得よう。ここで、僕等は、因果の世界から意味の世界に飛び移る。詩人が生きていたのも、今も尚生きているのも、そういう世界の中である。彼は殺された。併し彼の詩魂は、自分は自殺したのだと言うかも知れぬ。一流の詩魂の表現する運命感というものは、まことに不思議なものである。
 僕がここに止むを得ずやや曖昧な言い方で言おうとした処を読者は推察してくれたであろうか。実朝の作歌理論が謎であったところでそれが何んだろう。謎は、謎を解こうとあせる人しか苦しめやしない。実朝の人物の姿や歌の形が、鮮やかに焼付けられるには、暗室は暗ければ暗い方がいい。僕は、そんな風に感ずる。殆ど強い意志表示ろも言える様な形で歌われた彼の心の嵐が、思付きや気紛れだった筈があろうか。それは彼の生涯を吹き抜けた嵐に他ならず、恐らく雑然と詠み捨てられた彼の各種各様の歌は、為に舞上った木の葉であり、その中の幾葉かが、深く彼の心底に沈んだ。

  流れ行く木の葉のよどむえにしあれば暮れての後も秋の久しき

 秀歌の生まれるのは、結局、自然とか歴史とかいう僕等とは比較を絶した巨匠等との深い定かならぬ「えにし」による。そういう思想が古風に見えて来るに準じて、歌は命を弱めて行くのではあるまいか。実朝は、決して歌の専門家ではなかった。歌人としての位置という様なものを考えてもみなかったであろう。将軍としての悩みは、歌人の悩みを遥かに越えていたであろう。勿論彼は万葉ぶりの歌人という様なものではなかった。成る程「万葉」の影響は受けた。同じ様に「古今」の影響も精一杯受けた。新旧の思想の衝突する世の大きな変り目に生きて、あらゆる外界の動きに、彼の心が鋭敏に反応した事は、彼の作歌の多様な傾向が示す通りである。影響とは評家にとっては便利な言葉だが、この敏感な柔軟な青年の心には辛い事だったに相違ない。様々な世の動きが直覚され、感動は呼び覚まされ、彼の心は乱れたであろう。嵐の中に模索する彼の姿が見える様だ。ただ純真に習作し模索し、幾多の凡庸な歌が風とともに去るにまかせ、彼の名を不朽にした幾つかの傑作に、闇夜に光り物に出会う様に出会ったが、これに執着して、これを吟味する暇もなく、新たな悩みが彼を捕える。彼の眼前にチラつく彼のそういう姿は、定家所伝本の発見という様なものとは何んの係わりもない。発見は、あってもなくても同じ事だ。恰も短命を予知した様な一種言い難い彼の歌の調に耳を澄ましていれば、実は事足りるのだから。そういう僕の眼には、歌人の廿二歳の厄介な横死体さえ、好都合な或る象徴的な意味を帯びて見え兼ねないから。廿八で横死したとはいかにも実朝らしい。廿二で歌を紛失して了ったとはいかにも彼らしい、と。空想を逞しくしているわけではない。僕は、ただ、不思議な事だが今も猶生きている事が疑えぬ彼の歌の力の中に坐って、実証された単なる一事実が、足下でぐらつく様を眺めているに過ぎないのである。「吾妻鏡」によれば、実朝は十四の時には、既に歌を作っている。彼は蹴鞠に熱中する様に歌に熱中したのだろうが、歌は、その本来の性質上、特に天稟ある人にとっては、必ずしも慰めにはならぬ所以に、恐らく彼は思い至ったであろう。そういう漠然とした事は想像出来るとしても、彼が、歌道の一と筋につながり、其処に生活の原理を見出すに至ったという風な明瞭な想像は、先ず難しい事ではないかと思われる。彼が歌の上である特定な美学を一貫して信じた形跡が全く見当らぬのは、彼が人生観上、ある思想に固執した形跡の少しも見付からぬのと一般である。而も彼と「万葉」との深いつながりを説く人の絶えぬのは、あらゆる真摯な歌人の故郷としての「万葉」の驚くべき普遍性を語るものと考えていい。西行が、青春の悩みを、一挙に解決しようと心を定め、実行の一歩を踏み出した年頃には、実朝は既に歌うべきものを凡て歌っていた事を考えてみるがよい。いや、「金槐集」が彼の幾歳までの作であろうと、この驚くほどの秀作を鏤めた雑然たる集成に、実朝という人間に本質的な或る充実した無秩序を、僕が感じ取るのを妨げない。
「紫の雲の林を見わたせば法にあふちの花咲きにけり」(肥後)。「ほのかなる雲のあなたの笛の音も聞けば仏の御法なりけり」(俊成)。そういう紫の雲が、実は暗澹たる嵐を孕んでいる事を、非常に早く看破した歌人は西行であった。と、言っても、それが、彼の遁世の理由だったとか動機だったとか考えたいのではない。そういう彼の心理や意識は、彼とともに未練気もなく滅び去ったのだし、彼の歌が独り滅びずに残っているのも、そういうものの証しとしてではないのだから。歌はもっと深い処から生れて来る。精緻な彼の意識も、恐らく彼の魂が自ら感じていた処まで下ってみはしなかったのである。
 平安末の所謂天下之大乱は、僕等が想いみるにはあんまり遠過ぎるが、当時の人々にはあんまり近過ぎたとも言えるであろう。「寿永元暦などのころ世のさわぎは、夢ともまぼろしとも哀とも、なにともすべてすべていふべききはにもなかりしかば、よろづいかなりしとだにおもひわかれず。(中略)たゞいはんかたなき夢とのみぞ、ちかむもとほくも見聞く人みなまよはれし」(「建礼門院右京大夫集」)。眼前の事実も、「たゞいはんかたなき夢」と見えた人の文章に、勿論大動乱の姿を見る事は出来ないが、王朝人の見果てぬ夢が、いかに濃密なものであったかはよく現れている。動乱に夢を覚まされるには、この世を夢ともまぼろしとも観ずる思想はあまり成熟し過ぎていたのである。動乱のさ中に「千載集」が成ったという様な事にも別に不思議はない。歌人たちは、世のさわぎに面を背けていたわけではない。そんな事が出来た様な生やさしいさわぎではなかったであろう。彼等は、恐らく新しい動乱に、古い無常の美学の証明されるのを見たのである。(後略)

 

「世の中は鏡にうつるかげにあれ あるにもあらずなきにもあらず 」(「金槐和歌集」)