井伏鱒二の「太宰治」(中公文庫)を読んだ。
本書は、太宰治の師匠であった井伏鱒二が、二十年ちかくにわたる交遊の思い出を綴ったものである。
自分で書く言葉が、自分自身にとってヨソヨソシク感じられて困っていたのはいつのことだったか。
今頃になってようやく少し気負い無く言葉が出てくるようになったが、それは僕が嘘つきになったか大人になったか、僕自身に「言葉」が馴染んだかそのいずれでもないか——。
他者と分かり合おうと、擦れあうようにして、或いは捩れ合うようにして関わり、互いに傷つくことも、結果的に憎しみあうことも少なくなって生きやすくなった。
それじたいは喜ばしいことだろう。
ただそれは、「話が通じる」ようになって「意図」するところが相手に通じてその意図が「社会」の中で一定の「意味」を持ち、現実化していくということとは必ずしも同じとは限らない。
一体、自分の意図が現実化するとはどういうことなのか。
欲望の具現化がすなわち何らかの意図の実現であることは論を俟たないが、何らかの言動の実行が欲望に反することもまた多いにあり得る。
僕たちは、シタイ事だけをするわけではないからだ。
シタクないことを嫌々ながらする生き物でもある。
それは世間への「おつきあい」でする事かも知れないし、本来的でない心情の現れとして、「してしまう」何事かもしれない。
例えば、「空気」を読んで我知らぬ間に作っている愛想笑いかもしれない。
これとはまた別の太宰治に関する簡単なアンソロジーの類いを幾つか読んでいて、太宰の「弱さ」について考えた。
「おつきあい」井伏の言い回しが出てくる。
井伏が「太宰治」の中の「おんなごごろ」の項で描いた太宰は、たとえば「過剰適応」しようとする臆病な小動物を思わせる。
とりわけ太宰と心中した「山崎富栄」 との関わりにおいて、太宰の弱さは周囲を不幸にし、同時に自らの身を滅ぼした。
井伏の筆致は、太宰の情死は「なしくずしに「おつきあい」してしまった結果だ」と言わんばかりである。
個人の意思では容易に変わらぬ「現実」に、仕方なく過剰に適応した結果、齎されるのが個人の「素直な感情」の死なのではないか。
そこで私は思うのだ。
書く言葉に違和感を感じなくなること、スムーズに考えが纏まることは、もしかしたら「現実」の中で生きやすくなったから、ではないかも知れない、と。
それはただ、「現実」に僕たちが過剰に適応した故の変化に過ぎないのだとしたら——?
僕たちは、我知らぬ間に、自らの中のなにを、滅ぼすのだろうか?
自分の「違和感」は、僕たちに何かを知らせているのかもしれない、とも思うのだが。