中井久夫の『徴候・記憶・外傷』所収「発達的記憶論−外傷性記憶の位置づけを考えつつ」エピグラフより引用。
海の神秘は浜で忘れられ、
深みの暗さは泡の中で忘れられる。
だが、思い出の珊瑚はにわかに紫の火花を放つ。
(イオルゴス・セフェリス)
記憶とは何であるか、という問いが私に記述することを要請する。
甘美な記憶、消えてしまいそうな記憶、忘れたくない記憶や、捏造されたと思しき記憶…。
自らの存在、いや、存在に纏わり付いているそれらの「記憶」は自分には価値があるような気がするものだが、他者にとっては大して意味をなさないかもしれないというのに。
それは恰も、夢の話のようだ。
他人の夢の話ほど、関心を引かぬものはない。
そうと知っていながら、個人的な記憶を書き残しておかなければと切迫した気持ちに囚われる理由は何だろうか。
記憶それ自体に、人を伝達や記述に向かわせる特別な力と呼べるものがあるのだろうか。
詰まるところ、(私の)記憶とは何かと考えることは、私はなぜ書こうとするのかと問うことと同じと言える。
記憶の集積箱のような「過去の時間」は私のみた夢と同じなのだろうが、それが「にわかに」「火花を放つ」その瞬間がないとは言えない、とも思うのだ。