2月23日は、フランスの作家エミール・ゾラ(1840~1902)が、いわゆる「ゾラ裁判」で有罪判決を受けた日である。
「ゾラ裁判」は1894年の「ドレフュス事件」に端を発している。
ドレフュス事件とは、1890年代に軍人のドレフュス大尉のスパイ疑惑をめぐる冤罪事件のことである。このスパイ疑惑が持ち上がった際に、ゾラはドレフュスを弁護した。
1898年に『我弾劾す』(“J’accuse”) に始まる公開状を『オーロール』紙に寄稿している。
すると右派や反ユダヤ系新聞は激しくこれに反論した。結果、ゾラは軍に対する誹謗中傷の罪で告発された。
この裁判で有罪とされてしまったゾラは作家活動ができなくなることを避けるため、ロンドンに亡命した。が、翌年帰国している。
ドレフュスの再審が決定したのは1906年であり、結果的に無罪が確定している。
この「ドレフュス事件」に衝撃を受けた幸徳秋水(1872年〜1911年)は「ドレフュー大疑獄とエミール・ゾラ」という一文を書いた。
而も赳々たる幾万の豼貅、一個の進んでドレフューの為めに、其寃を鳴し以って再審を促す者あらざりき。
皆曰く。
寧ろ一人の無辜を殺すも陸軍の醜辱を掩蔽するに如かずと。
而してエミール・ゾーラは蹶然として起てり。彼が火の如き花の如き大文字は、淋漓たる熱血を仏国四千万の驀頭に注ぎ来れる也。
当時若しゾーラをして黙して己ましめんか、彼れ仏国の軍人は遂に一語を出すなくしてドレフューの再審は永遠に行われ得ざりしや必せり。
彼等の恥なく義なく勇なきは、実に市井の一文士に如かざりき。
彼軍人的教練なる者是に於て一毫の価値ある耶。(「ドレフュー大疑獄とエミール・ゾーラ」幸徳秋水)
ドレフュスの無罪が確定した4年後の1910年に、日本ではいわゆる「大逆事件」が起こっているが、ちょうどその頃出版されたフランス詩選『珊瑚集』の訳者の永井荷風はその「序」の中で、以下のように書いた。
「軍国政府為に海外近世思想の侵入せん事を悲しみ時に其が防止を企つ。これ忝けなき立憲の世の御仁政なり。」
1919年、荷風は小説「花火」を著した。
大正四年になって十一月も半頃と覚えている。都下の新聞紙は東京各地の芸者が即位式祝賀祭の当日思い思いの仮装をして二重橋へ練出し万歳を連呼する由を伝えていた。かかる国家的並に社会的祭日に際して小学校の生徒が必ず二重橋へ行列する様になったのも思えばわたし等が既に中学校へ進んでから後の事である。区役所が命令して路地の裏店にも国旗を掲げさせる様にしたのも亦二十年を出でまい。此の官僚的指導の成功は遂に紅粉売色の婦女をも駆って白日大道を練行かせるに至った。現代社会の趨勢は唯只不可思議と云うの外はない。この日芸者の行列はこれを見んが為めに集り来る弥次馬に押返され警護の巡査仕事師も役に立たず遂に滅茶々々になった。その夜わたしは其場に臨んだ人から色々な話を聞いた。最初見物の群集は静に道の両側に立って芸者の行列の来るのを待っていたが、一刻々々集り来る人出に段々前の方に押出され、軈(やがて)行列の進んで来た頃には、群集は路の両側から押され押されて一度にどっと行列の芸者に肉迫した。行列と見物人とが滅茶々々に入り乱れるや、日頃芸者の栄華を羨む民衆の義憤は又野蛮なる劣情と混じてここに奇怪醜劣なる暴行が白日雑沓の中に遠慮なく行われた。芸者は悲鳴をあげて帝国劇場其他附近の会社に生命からがら逃げ込んだのを群集は狼のように追掛け押寄せて建物の戸を壊し窓に石を投げた。其の日芸者の行衛(ゆくえ)不明になったものや凌辱の結果発狂失心したものも数名に及んだとやら。然し芸者組合は堅くこの事を秘し窃(ひそか)に仲間から義捐金を徴集して其等の犠牲者を慰めたとか云う話であった。
昔のお祭には博徒の喧嘩がある。現代の祭には女が踏殺される。(「花火」一部抜粋)
獄中、幸徳秋水が弁護士宛て書いた「陳弁書」の中に、大塩平八郎に関して陳述している箇所がある。そこには以下のようにある。
天明や天保のやうな困窮の時に於て、富豪のものを収用するのは、政治的迫害
に対して暗殺者を出すが如く、殆と彼らの正当防衛で必死の勢ひです。
(略)政府の迫害や富豪の横暴其極に達し人民溝(がく)に転ずる時、之を救ふのは将来
の革命に利ありと考へます。
(略)其時の事情と感情とに駆られて我れ知らず奮起するのです。
大塩中斎の暴動なども左様です。
飢饉に乗じて富豪が買占を為す、米価は益々騰貴する、是れ富豪が間接に多数の殺人を行って居るものです。
坐視するに忍びないことです。
此乱の為めに徳川氏の威厳は余程傷つけられ革命の気運は速められたことは史家の論ずる所なれど、大塩はそこまで考へて居たか否やは分りません(略)」
(『幸徳秋水全集』第六巻 全集編集委員)