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書くこと、読むこと、考えること。
 
荷風の背中と「明月珠」

荷風の背中と「明月珠」

 2000年に発行された、三田文学創刊九十年記念の「三田文学名作選」の中に、石川淳の「明月珠」を見つけたので読んでみた。

 「三田文学名作選」の編集後記「編集室から」によれば、この選集は「第一号三田文学以降のすべての掲載作の中から原則として原稿五十枚以内のものを選出し、当時の理事長、江藤淳の「物故作家に限る、掲載は初出のまま」との決断を反映しているものらしい。

 石川淳の「明月珠」が「三田文学」に発表されたのは昭和二十一年で、三田文学三月号に掲載された。

 

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 物語冒頭、「私」は年頭の宿願を語る。

 「私」の年来の宿願、それは自転車に乗れるようになることだ。

 「私」は自らを「俗物の仲間」、「みだりに著述業などと称して世間体をつくろって」いる「貧乏書生」と自認している。

 そしてその「私」は「速くて便利なものが大好きな生まれつき」である。

 しかし、「私」は「動作の俊敏をもつて許すことができない。」らしい。

 また「私」は求職活動も上手くいかない。
 その理由はその仕事の性質上、自転車に乗れる必要があるにも関わらず「私」が自転車に乗れないためだ。
 結果「私」はその職を諦めるのである。
 要するにこの出来事が「私」を発奮させ、「私」は自転車に乗れるようになりたいと願うようになったというのだ。
 年明け早々「私」は住まいの裏手の空き地で、一台の中古の自転車を乗りこなす練習を始めるのだが、その指南役が、その自転車を貸してくれた自転車屋の娘である。

 この少女、少々足が悪いのだが、当人はその事を全然苦にしていない。
 「それどころか、少女が得意とする自転車に乗って走り始めたときには、花びらの舞ふやうにかるがると」乗ってみせるほどみごとで、「この少女のほんたうの足はじつは自転車にほかならないといふことを納得させられてしまうだらう」ほどである。
 一方「私」はと言えば、自転車を持て余して、なかなか上達しないで、転んでばかりいるし、近所の子どもたちから揶揄われて大汗をかいているばかりである。

「自転車がまだなじんでくれるに至らず、私は乗ることよりも落ちることのはうにいそがしかった。何度もこりずにくりかへして、あるひは親和しようとつとめ、あるひは征服してやらうとあせつても、先方では不器用な新参者と見くびつて、邪慳にわたしを振りはらひ、横倒しに突きはなしてしまふ。わたしはどうしてもいふことをきいてくれないこの剛情な物質をもてあまして、大汗をかき、泥まみれになり、てのひらまで擦りむいて、ときどき地べたに倒れたまま息ぎれのやむのを待つた」

 このような悪戦苦闘を無益なことと笑うことはできない。この不屈の努力、健気な努力は何によるのか。

 ここで読むべきは、「私」の生真面目な性格である。
 自らを「俗物の仲間」、「みだりに著述業などと称して世間体をつくろって」いると規定するような自意識は、自己卑下とも自分を実際より良く見せようという自己肥大の欲求からも程遠いものである。
 自己を冷静に客観視しようとする視線の先にあるのは、日々の着実な「努力」であり、その努力の結果としての自己実現なのである。

 また、少女の自転車操縦を描写する言葉の孕む官能性と、「私」の泥臭い練習の描写のコントラストは、実にみごとである。
 「私」は憧れや宿願や夢見る先に描く自らの姿から弾かれながら(実際に彼は「自転車に小馬鹿にされどほし」と感じている。)しかし、具体的な「練習」「訓練」を諦めてはいない。

 さて、本作の登場人物三人目は「藕花先生」である。
 知られるように、藕花先生のモデルは永井荷風であると考えられている。
 そして、藕花先生が住まう崖の上の館は「連糸館」である。(「連糸館」のモデルは実際に荷風が住んだ「偏奇館」だろう。)
 この先生、荷風よろしく、人嫌いで孤高の雰囲気が漂っている。

 

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 「池澤夏樹個人編集 日本文学全集 19」石川淳年譜の記載によれば、昭和二十年三月九日の夜半、東京大空襲に見舞われたその翌日、石川淳は永井荷風の「偏奇館」焼跡に行く、とある。

「明月珠」の「私」が乗れるようになった自転車に乗って彼が出かけたのは、東京大空襲の翌日である。

 行き先は、「連糸館」である。

 永井荷風はよく知られる通り、「断腸亭日乗」という日記を付けている。昭和二十年三月九日の日記には偏奇館焼亡の件が下記のごとく読まれる。

「三月九日。天気快晴。夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す。(中略)余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり隣人の叫ぶ声のただならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包(てかばん)を提げて庭に出でたり。谷町辺にも火の手の上るを見る。また遠く北方の空にも火光の反映するあり。火星(ひのこ)は烈風に舞ひ粉々として庭上に落つ。余は四方を顧望し到底禍(わざわい)を免るること能はざるべきを思火、早くも立迷ふ烟の中を表通りに走出で、(中略)道を転じて永坂に到らむとするも途中火ありて行きがたき様子なり。時に七、八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通に出で溜池の方へと逃しやりぬ。(略)余は風の方向と火の手とを見計り逃ぐべき路の方角をもやや知ることを得たれば麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ。」(「摘録 断腸亭日乗」(下)永井荷風著・磯田光一編 岩波文庫版より抜粋)

 

 本作でも事情は同じである。

 空襲による火事で「連糸館」は焼けてしまっていた。

 そこにはすでに館の主人たる藕花先生は居ない。

 聞けば、藕花先生は原稿だけを持って姿を消してしまったらしい。
 その後ろ姿を「私」は幻のように視る。

「わたしはまのあたりに、原稿の包ひとつをもつただけで、高みに立つて、烈風に吹きまくられながら、火の粉を浴びながら、明方までしづかに館の焼け落ちるのを見つづけてゐたところの、一代の詩人の、年老いて崩れないそのすがたを追ひもとめ、つかまへようとしてゐた。弓をひかばまさに強きをひくべし。藕花先生の文学の弓は尋常のものではないのだらう。」

 磯田光一は「永井荷風」(講談社文芸文庫)の中で、偏奇館の焼失について以下のように書いている。

「偏奇館の焼亡は、しかし荷風にとっては、たんに住居の焼失というだけのものではなかった。荷風が外側の社会に対して精神的に武装したとき、偏奇館は精神の延長といってもさしつかえなく、その垣根が外部の力に対する防波堤になっていたのである。だが、防波堤が突然消滅したとき、文人としての生活のスタイルも、ただの生活者の次元に還元されていくしかない。過去二十六年におよんだ偏奇館の生活は、肉親さえ遠ざけるという徹底性において、人間界を「他人」化する個人主義によって貫かれていた。」

 

 偏愛する館が、戦災という、個人にとって誠に巨大で理不尽すぎる暴力によって奪われてしまうことの悔しさと苦しさと、悲しさを、それを見つめる住まいの主人たる無力な個人、荷風の背中−−。 

 

 石川淳が「明月珠」の中に描かんとしたものの一つはそんな永井荷風の姿であった。