大江健三郎を読んでいて、ふと立ち止まることを余儀なくさせられる言葉、に出会うことがある。
その言葉、「一瞬よりはいくらか長く続く間」を、ノートの切れっぱしに書き取り、書斎の壁に貼っている。
そうして、自分が書くことに詰まるとその言葉を眺め、反芻する癖がついた。
一瞬のうちに、おそらく僕は多くの経験をしているが、しかしそれがあまりに瞬間的でありすぎるために僕はその全てを把握することはできないのだ。僕は本当はその全てを書き留めておきたいのだが、僕の認識能力には限度がある。だからせめてそのうちのどれか一つでも認識できたら、それを僕は書き記すのだ。それが書いている僕にできる精一杯のことなのだ……。
大江は『燃え上がる緑の木』の中に以下のように書いていた。
― この一瞬よりはいくらか長く続く間、という言葉に私が出会ったのはね、ハイスクールの前でバスを降りて、大きい舗道を渡って山側へ行く、その信号を待つ間で…… 向こう側のバス・ストップの脇にシュガー・メイプルの大きい木が一本あったんだよ。
その時、バークレイはいろんな種類のメイプルが紅葉してくる季節でさ。
シュガー・メイプルの木には、紅葉時期のちがう三種類ほどの葉が混在するものなんだ。
真紅といいたいほどの赤いのと、黄色のと、そしてまだ明るい緑の葉と…… それらが混り合って、海から吹きあげて来る風にヒラヒラしているのを私は見ていた。
そして信号は青になったのに、高校生の私が、はっきり言葉にして、それも日本語で、こう自分にいったんだよ。
もう一度、赤から青になるまで待とう、その一瞬よりはいくらか長く続く間、このシュガー・メイプルの茂りを見ていることが大切だと。
生まれて初めて感じるような、深ぶかとした気持で、全身に決意をみなぎらせるようにしてそう思ったんだ……。
(大江健三郎『燃え上がる緑の木 第一部』)
そしてプルーストは過去の記憶を探る時のことを以下のように書いているんだ。おもしろいね。
過去の復活 は、その状態が持続している短いあいだは、あまりにも全的で、並木に沿った線路とあげ潮とかをながめるわれわれの目は、われわれがいる間近の部屋を見る余裕をなくさせられるばかりか、われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気を吸うことを強制され 、われわれの意志は、そうした遠い場所がさがしだす種々の計画の選定にあたらせられ、われわれの全身は、そうした場所にとりかこまれていると信じさせられるか、そうでなければすくなくとも、そうした場所と現在の場所とのあいだで足をすくわれ、ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしたときどき感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられる。
(プルースト「見出された時」)